意思決定の一助に ― 調所笑左衛門広郷を読む ―

序文

なぜ今、笑左衛門なのか

空き家が900万戸を超えた。

国も自治体も、この数字を取り上げる。しかし、広く認識されながら、新築住宅は今日も建ち続ける。テレビCMは、住宅ローンの金利上昇局面に怯えながらも今が最後の借り時だと笑顔で紹介する、シャッター街の隣には真新しいマンションが建つ。

この風景に、今も私はピントを合わせられずにいる。これは私の嗜好の問題ではなく、国の経済構造の問題のように見える。

あるとき、郷土に一人の先人を見つけた。

調所笑左衛門広郷。薩摩藩の財政を、わずか18年で壊滅状態から日本有数の雄藩へと立て直した人物だ。彼は既存のシステムの構造的矛盾を見抜き、内側から問い直し、時に海賊にもなった。答えは外にあるのではない。足元にある。強みを見極め、阻害要因を取り除き、断固として動く。それが彼の意思決定だった。空き家問題も同じ構造なのではないかと私は考えた。新築至上主義という現代の「鎖国政策」が、本来の価値や方向性を見えにくくしている。

この論考は、実は国の為政者たちへ届けたいと密かに思って書いた。
鹿児島から。笑左衛門の気概を借りながら。

第一章

調所笑左衛門広郷とは何者か

設備投資や改革の意思決定は、利益を増やすために行うものです。そのことを踏まえて、薩摩の偉人「調所笑左衛門広郷」に触れておきましょう。

調所笑左衛門広郷(ずしょ しょうざえもん ひろさと:以後、笑左衛門)は、薩摩藩の財政を立て直したことで有名です。が、細かなことが謎に包まれていて、人物も功績も一般的には案外知られていない人です。

もし笑左衛門が薩摩藩の財政を立て直していなければ、西郷や大久保も活躍できずに明治維新そのものがまったく別のかたちになり、今とは違う日本になっていたかも知れない、そんな明治維新の舞台装置の設営に深く係わった人でした。

笑左衛門が財政改革を命じられたとき、薩摩藩は500万両の借入金の返済に喘いでいました。年収15万両程度なのに、利息が60万両あったと言いますから財政破綻状態にあったわけです。そこで笑左衛門は、借入金500万両を年2万両づつ250年割賦にしてほぼ踏み倒したと言われています。その通りです。ただ、幕府もそれを追認していますので、当時は合法だったことになります。当然ですが、裏工作はありました。

ここで、ハッキリさせておかなくてはなりません。借入金を踏み倒しても収入は増えません。笑左衛門は薩摩藩の改革に相当の金をつぎ込みながら、それとは別に250万両を金蔵に蓄財したのです。正確に何年掛かったのか知りませんが、笑左衛門が改革の大命を受けてから亡くなるまで19年です。このことに着目しなければいけないのです。

250万両は、現在の価値で、4000〜5000億円くらいでしょう。これ、凄くないですか?誰も成し得なかった改革を、笑左衛門はどうやって実現したのか、どのような意思決定をしたのか。以降、シリーズで解説します。

第二章

薩摩国の強みと弱み

調所笑左衛門広郷が生まれた薩摩国の強み・弱みを見てみましょう。

薩摩国は、黒潮が最初にぶつかる日本列島の南西側先端にあります。なので、ヤシの実が自然と漂着するように外国船も古くから来航し、貿易で栄えていたようです。資料が残っています。

「かの薩摩国は非常に山が多く、したがって元来貧乏で、食糧品の供給を他に仰ぐよりほかに途がない。この困難を除くために、その国の人びとはずっと前から八幡(バハン)といわれたある職業に携わっている。それはシナの沿海や諸地域へ掠奪鹵獲に出かけていくことであって……」
── コスメ・デ・トルレスの鹿児島の報告書(ルイス・フロイス「日本史Ⅰ」1552年)

また1547年、宣教師ジョルジ・アンワーレスの報告書では、薩摩国が山川港をはじめ自然の良港に恵まれている状況と、輻輳する南蛮船の存在が報じられています。更に、島津貴久がポルトガル長官へ宛てた書状(1561年)には次のようにあります。

「ポルトガル人は、善人なるが故に、我が国に彼等の来ることを喜び、当地に対し少しも危害を加えず、却って何事にも便宜を与ふべし。貿易のため彼等が予の国に来ることは喜ぶべし。(略)、予が心は海岸に出て彼等の来るを待てり」

島津家に伝聞として記録された史料(『薩摩旧伝集』巻ノ一)には、「南蛮人多く来りて山川(港)より喜入の辺りまでの浜辺の地、横一町ほど、長さ三里ばかりを借地として彼らに貸し……」とあります。更に、山川港からフィリピン呂宋(ルソン)島まで、毎晩陸で寝て辿り着けたようです。既に島伝いの航路が開発されていたのでした。

  • 強み:南に開けた、黒潮を切り裂くロケーション。自然の良港が多い。
  • 弱み:山が多く、土地が痩せて、貧乏である。したがって、交易に頼るしかない。

つまり、薩摩は古来より海洋国家として生きるしかなかった、ということになります。鑑真が辿り着いたのも、鉄砲が伝来したのも薩摩です。笑左衛門が生れた薩摩の空気観を、簡単にまとめてみました。

第三章

島津重豪という人物

笑左衛門に薩摩藩の財政改革を命じたのは第八代藩主 島津重豪(しげひで:1745-1833)です。今回はこの重豪を見てみましょう。

重豪が薩摩藩主になったのは1755年ですが、このとき重豪はまだ10歳でした。この1755年は今も宝暦治水として語り継がれる木曽三川改修工事が完了し、総奉行の平田靱負(ひらた ゆきえ)が自害した年に当たります。

「住み馴れし里も今更名残にて、立ちぞわずらう美濃の大牧」
── 平田靱負 辞世の句

薩摩藩の借財を大幅に増やしたのは第十代藩主 斉興のときですが、重豪が院政を敷いていました。借財額は1827年時点で500万両になっていたのです。重豪は薩摩を光り輝かせたかったのでしょう。将軍家に娘を嫁がせたりしています。ただ、プライマリーバランスが悪すぎました。

薩摩藩の借財の推移

徳永和喜先生が調べられた薩摩藩の借財の推移です。

借財額 藩主・備考
1616年 2万両 初代 家久
1632年 14万両 家久
1640年 35万両 二代 光久
1749年 56万両 七代 重年
1754年 66万両 重年
1801年 117万両 九代 斉宜(重豪院政)
1807年 126万両 斉宜(重豪院政)
1827年 500万両 十代 斉興(重豪院政)

1824年、笑左衛門は両隠居続料掛という役職に側用人格で登用されます。側用人とは、藩主の家政を総覧する責任者ですが、笑左衛門は肥大化する隠居経費を工面する担当でした。しかし笑左衛門には非凡な才能があったのでしょう、重豪は翌年から恩賞・加増を繰り返し、1830年には藩の財政改革の朱印状を与えています。側用人に登用されてから恩賞、加増、昇進の連続です。

1830年の財政改革の大命を引き受ける際、笑左衛門は重豪に「改革の全権と薩摩藩家老へ調所の指図を守るべき旨」の令達も要請しました。このときはまだ側用人です。薩摩藩の家老達に対して「私に従って頂きます!」と宣言するに等しいわけです。思っていてもなかなか言い出せないのではないでしょうか。大きな、大きな、そして大変重要な、意思決定だったと思います。

笑左衛門に課せられた改革の目標(1830年12月)

  • ① 金五拾万両を1840年までに揃えること
  • ② 金納兼非常手当を事あるたびに準備すること
  • ③ 古証文を取り返すこと

問題は③です。「500万両を返済せよ!」ではなく「証文を取り返せ!」と。薩摩の侍への命令として読むと、実に具体的で現実的です。文字通り「取り返せ!」だったということです。それを引き受けた笑左衛門の肝の据わり方にシビれますね。

第四章

財政改革の始まり ― 薩摩国の足元を見る

笑左衛門の藩の財政改革が始まりました。大命を受けたのが1830年(天保元年)12月でしたので、天保の改革とも呼ばれています。

薩摩藩が出来たのは1601年です。財務状況は、1616年で既に2万両(≒40億円)の借財です。そのまま赤字経営が続き、1830年時点で500万両(≒1兆円)の借財になるわけです。我が薩摩藩はなぜ200年余りも赤字経営を余儀なくされたのでしょうか。

私は、薩摩国は古来より海賊国家あるいは海洋国家として掠奪鹵獲や海産物の交易で生きるしかなかったと考えています。「薩摩国」と「薩摩藩」は視点が異なります。「薩摩国」は海洋国家と考えるのが妥当で、一方「薩摩藩」は海洋国家「薩摩国」の強みをなかなか活かすことができなかった行政府です。

徳川時代になり薩摩の何が変わったのか。結論から書きます。「交易はものすごく儲かる」という価値観が徳川に引き継がれ、交易の富を独占する鎖国政策を強いたことで、薩摩国としての自由な交易ができなくなったのです。徳川幕府の鎖国政策は「日本国は鎖国するんだ!」という意味ではありません。「今後、交易は徳川が独占するから他は鎖国せよ!」という政策です。

しかし幕府の方針にも一貫性に欠ける面がありました。経済行為としての交易は禁じておきながら、外交としての琉球貿易支配は薩摩藩に認めたのです。なにしろ、取り締まる相手は海賊の末裔なのですから、容易に取り締まれるわけがないのです。

秀吉の時代、千利休が広めた茶道とともに呂宋(ルソン)壺のバブルが発生しました。「交易はものすごく儲かる。超いいこと!」——この価値観が全員に刷り込まれます。しかし秀吉、家康、島津が見たのは交易の利潤ではなく、バブルのアブク銭でした。「独占すればもっと儲かる」という方向に設計してしまったのです。笑左衛門が足元に見ていたのは、バブルの夢を追い続ける薩摩藩であり幕府の姿だったのではないでしょうか。

第五章

密貿易 ― 海賊、笑左衛門の本領

笑左衛門にはハッキリ見えていたことが、最低二つはあったと思います。

  • 自由交易の再開で薩摩国の強みを最大化する(海洋国家に戻す)
  • 琉球の朝貢貿易のフレームワークを自由交易に利用する

「笑左衛門が密貿易の首謀者だ!」という表現をよく見かけます。ただ、密貿易については定義をハッキリさせておいた方が良いと思います。薩摩は古来からずっと交易を行っていましたが、徳川幕府の鎖国令によって琉球貿易支配以外の交易は「密貿易」と呼ばれるようになってしまいましたが、薩摩国が何かを変えたわけではありません。変わったのは幕府の方針・政策の方です。

1830年から笑左衛門が取り組んだのは黒糖の専売品貿易と「密貿易Ⅱ」です。「密貿易Ⅱ」は食うための「密貿易Ⅰ」とは違います。徳川から利権を奪う、幕府に対し挑戦状を叩きつけるかのような気合いの入った政策です。海洋国家「薩摩国」が総力を挙げて密貿易をやるとこうなる、それを行政府「薩摩藩」主導で行いました。笑左衛門はその首謀者です。つまり笑左衛門は海賊になったのです。

薩摩藩輸送船の建造

薩摩藩は、領内で生産されたコメを大坂へ運搬するために、富吉丸・富永丸・富福丸・富徳丸の四艘の輸送船を重富で建造し、藩直営の海運業務に乗り出します。その後、この船団は黒砂糖専売の運送を担うようになり、造船費用を薩摩藩が海商に貸出し商船数はたちまち数十隻になります。海洋国家「薩摩国」の復活です。

笑左衛門の「密貿易Ⅱ」

幕府の長崎貿易の主力輸出品は「俵物」と呼ばれる海産物でした。煎海鼠(いりナマコ)、干鮑(ほしあわび)、鱶鰭(ふかひれ)、昆布(こんぶ)——産地は松前(北海道)でした。海賊となった笑左衛門はこの幕府の貿易利権を奪いにいきました。薩摩藩も琉球を窓口に俵物の輸出を始めたのです。産地で幕府より先に薩摩の商人が買い集めた商品を産地で横取りしたわけです。これを「抜荷(ぬけに)」と言います。幕府と戦争も辞さず、くらいの覚悟がないとやれません。

そして重要なルートが、富山の売薬商ルートでした。薩摩は琉球支配貿易が許されていますから、清から薬の原料が入手できます。笑左衛門は売薬商に松前の昆布の調達を依頼しました。富山は「富山薩摩組」という組織を新設し、松前の昆布の調達と薩摩への輸送を担ったのです。昆布を満載した北前船が薩摩に来ました。その昆布を薩摩が琉球へ運びます。そして、琉球は俵物を清で売り捌く、飛ぶように売れたそうです。こうして、薩摩藩の収入は激増していきます。

第六章

証文を取り返せ

1830年からの財政再建策は黒糖専売、抜荷などの業務の積極拡大策で順調に伸びていました。そして、

  • 1836年4月、笑左衛門は幕府に10万両(≒200億円)を上納。
  • 1837年、京・大坂・奈良の商人に250年賦を実施。
  • 1838年、江戸の商人に対しても同様に実施。

京、大坂、奈良、江戸の商人達は驚いたことでしょう。なにしろ合計500万両(≒1兆円)です。すぐさま幕府へ訴えます。しかし、薩摩藩や笑左衛門への咎めはありませんでした。幕府が白と言えば白なのです。10万両の上納が効いたと解釈することも可能でしょう。笑左衛門にとって、500万両の借財の証文を実質的に10万両で取り返したのと同じ結果になりました。

海賊、笑左衛門のビジネススタイルは幕末まで継続されました。金蔵には200万両以上蓄財されていたようです。これが海洋国家「薩摩国」のポテンシャルでした。そして、そのまま明治維新へ走り込んでいきます。

調所笑左衛門広郷は、途中で島津氏の跡目相続争いの政変に巻き込まれます。笑左衛門が抜荷を行う海賊であることを幕府に垂れ込んだのは実は斉彬です。1848年12月、笑左衛門は江戸で服毒自殺してしまいます。そして、笑左衛門は歴史の舞台から消されてしまいました。

西郷、大久保が大舞台で活躍することができたのは、海賊、笑左衛門が築いた藩の財力のお蔭とも言えます。財力がなければ戦艦も鉄砲も買えませんでした。笑左衛門は死ぬ気で海賊を演じたのだと思います。「薩摩国を海洋国家に戻し、薩摩藩の財政を立て直す、そのために自分は海賊にでもなる」——そんな決意だったのではないでしょうか。強烈な意思決定です。1830年から亡くなる1848年までの18年間、この僅か18年で薩摩藩を日本有数の雄藩にまで再建したのです。

第七章

総括 ― 笑左衛門の意思決定から何を学ぶか

調所笑左衛門広郷の業績を駆け足で振り返ってみました。

薩摩国の強みは何か、その強みを活かせているのか、活かせていないとするなら阻害原因は何か、阻害要因を取り除くには何をすればいいのか、阻害要因が無くなれば何が出来るのか、その結果「薩摩国」はどうなるか。笑左衛門はそれを考え続けた人だったと思います。そして、海洋国家に戻ること、に活路を見出したのです。経営は、モノマネを上手にすることではないのです。

会社・組織の強みは何か。「わが社に強みは何もありません」そんなバカなことはありません。強みが何もなければとっくに消滅しています。今、消滅していない理由が「強み」です。そこを活かしきれていないから伸びないのです。もし伸びていないのであれば、1600年頃〜1830年までの薩摩藩と同じですので、笑左衛門の意思決定は大成功事例として勉めて研究し大いに参考にすべきだと考えます。

笑左衛門は輸送船を建造しました。コメ運搬のための設備投資をしたのです。そしたら、黒糖運搬でその設備投資が開花しました。笑左衛門は大繁栄している海洋国家「薩摩国」が見えていたのだと思います。海洋国家には輸送船があって当然だから建造したのでしょう。その薩摩海軍が東郷平八郎を世に送り出します。東郷は対馬沖でロシアのバルチック艦隊を壊滅させて日本を救いました。歴史はどこまでも繋がっていきます。

島津重豪の計画性のない浪費によって薩摩藩は500万両の借財を抱えました。私は、必然だったのだろうと考えます。笑左衛門に財政改革を成させ金蔵に十分なカネを蓄財するためには重豪の半端ない浪費がどうしても必要だった、と。同様に、西郷・大久保に維新を成させるためには笑左衛門の財政改革がどうしても必要だった。また、東郷平八郎に対馬沖海戦で大勝利させるためには、どうしても維新が成され日本が統一される必要があった、と。歴史はどこまでも繋がっています。

私も、薩摩がまた強くなるにはどうしたらよいか、考え続けてみたいです。

結語

為政者へ、鹿児島から

ここで答えを出すつもりはありません。

空き家900万戸という数字は、誰かの失策の結果ではなく、戦後日本が選び続けた経済構造の帰結です。新築を建て、ローンを組み、消費を回す。その循環が日本を豊かにした時代は確かにありました。否定するつもりはありません。しかし、その循環が自己目的化したとき、家は人が住むためのものではなく、経済を回すための装置になったのです。

笑左衛門が見ていたのは、借財の額ではありませんでした。薩摩国の強みが、幕府の鎖国政策という構造によって封じられているという事実だったのです。彼は問い直したのは、「なぜこうなっているのか」ではなく、「何が阻んでいるのか」でした。そして動いた。

住まいの問題も、今や個人の選択の外にあります。税制、金融政策、建築基準、流通の仕組み——これらは為政者が設計し、為政者が変えられるものです。業者は政策の中で動く。政策が変われば、業者は必ず変わります。

だから、この論考は為政者へ届けたいと思っているのです。

高市早苗首相の登場は、私の心を揺らしました。その行動力と、既存の流れに臆さない姿勢に、かつて笑左衛門が重豪に言い放った言葉を重ねてみました。「改革の全権を私に与えてください。そして家老たちに、私の指図に従うよう命じてください。」大義のためなら、そこまで言える人間が為政者には必要だと思います。

鹿児島から、一人の宅建士が書いています。
笑左衛門の気概を、少しだけ借りながら。

参考文献

  • 徳永和喜『海洋国家薩摩』(南方新社、2011年)
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著者

坂本 隆夫

不動産業 鹿児島

2026年

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